少し前ですが、花子の学校の学年末の個人面談に行った時のことです。
3年生最後の個人面談
個人面談ですが、担任の先生からどんなことを指摘されるのか毎回ドキドキします。
3年生になってからは、1,2年次とは違ってお勉強面でのこともよく言及されるようになりました。
今回は特に勉強面でのお話が多かったです。
花子の場合は「全科目とも取りこぼしがないのが大変良いです」とのお褒めの言葉。
しかし一方で「積極的な発言、思考、論理性については、さらなる飛躍が望まれる」とのこと。
というのも花子さんは、授業中に毎回手を挙げるタイプではない。(というか周りが積極的な子ばかりで押され気味なのです)
お友達の意見をよく聞いていて、受け入れは良好だが、時として「他力本願」になっている。
さらにテストの思考力問題・記述問題では、少し苦手意識があるようだと。
うーん、先生色々ハイレベルなことを仰いますね…と感じてしまいました。
「お友達関連では全く問題はなく、安心して見ていられる子です」とのことでしたので、この点は非常にホッとしました。
結局、導いていくのは親しかいない、という事実
「積極性」「思考力」「論性性」という課題を投げかけられたわけですが、じゃあどうすればいい、という即効性のある解決策を担任の先生がお持ちなわけでは当然なくって。
またこれらの項目は、1週間2週間で身に付けられるものではない。
長い目でみて導いてあげなければならないことばかりです。
結局親がしっかり見てあげて、少しでも向上していくように導くしかない話。
最後まで導けるのは親しかいない、という当たり前のこと
以前Twitterで、某個人塾の先生が「結局は地頭ですから」という発言をして燃えてたことがありました。
燃えた理由は、成績結果が思わしくなくっても「地頭」という持って生まれたもので全て片付けるのであれば、塾の先生という自分自身の仕事を全て無意味だと言っているのと一緒だと。
さらには、少しでもわが子のためにと思って塾に託している親の気持ち、金銭的負担に対しても不誠実な言葉ではないかと。
そのやり取りをみて私が感じたのは、塾や学校の先生は先生であって、最終的なことまで面倒をみる立場ではない。
結局最終的に子供と二人三脚するのは「親」であって、残念な結果を得ることがあっても甘んじて受け入れつつも諦めず改善策を探るのはほかでもない「親」にしかできない役割なんだなと。
だから今回担任の先生から投げかけられた「積極性」「思考力」「論理性」というのは、我が家の導き方で足りてないもの、という指摘なのかなと思いました。
親が諦めない、先生も諦めない「ビリギャル」
たまたま先日、娘と一緒に映画「ビリギャル」をアマゾンプライムビデオで観ました。
ご存じの方も多いと思いますが、こちらは実話をもとにされた話です。
ビリギャルちゃんもすごいのですが、それ以上にわが子を全面的に信頼し応援するお母さんはもっとすごい信念の塊でした。
さらには個別指導塾の先生も、不可能を可能にすると、本人以上に熱い決意で指導されていました。
自分以外の大人が、自分以上の熱意と優しさで応援してくれれば、自ずと本人も突き進める。
ビリギャルのお母さんの様に子供を信じて、子供のために頭を下げるのを厭わない後ろ姿は子供を動かす。
暖かくて、熱い大人(親もしくは先生、できれば両方)って子供が育つ上で必要不可欠なんだなと思いました。