先日娘と二人で春のドラえもん映画を見ました。実は私は昔からドラえもん好きなので、娘とドラえもん映画が観れるようになってとても嬉しいです。娘と見るのは昨年春に続いて2回目です。
今年は「月面探査記」で月がテーマです。脚本は人気小説家の辻村深月さん。 幼いころから藤子・F・不二雄の作品のファン だったそうで、今回の脚本に関しては往年のファンからは、元々のドラえもん作品を壊していない、世界観が守られていると好評のようです。ですので尚更楽しみにして映画館に向かいました。
↓文庫本とジュニア文庫も出ています。
以下、ネタバレもありますので読みたくない方はバックしてくださいね。
映画は、美しい情景や楽しいファンタジーを織り交ぜながら、友情や家族愛、想像力の大切さなどが描かれていました。今回は人々が作り出した人工知能が悪の親分という設定でした。AIをもってくるあたりが現代的ですね。
最後の対決でドラえもんがAIに対して言い放った言葉 「想像力は思いやりだ!」(正確な言い回しは違ったかもしれませんが)がとても深くて。深くて。そう、想像力を適切に働かせれば、無下に他人を貶めたりする必要もないし、より豊かに平和に暮らすことができるよね、と。でも「その反対は破壊だ」ということもドラえもんは言っています。ドラえもん哲学者だな。クライマックスにふさわしい良い言葉だなと思いました。
さて今回観終わった後もどうしても釈然としないモチーフがありまして…。それは「異説バッジ」と「定説バッジ」のこと。
そもそもがのび太が「月にうさぎがいる」という今の世の中では正しくないとされていること、つまり異説を信じていて、「異説バッジ」を付ければ付けた人はみんなその異説「月にうさぎがいる」を信じることができる。実際に見ることもできるのです。
それが最後には月のうさぎ(の発明家)が「定説バッジ」を発明して、うさぎたちみんなが「定説バッジ」を付けて現れる、全員にその姿が見えるとなるのですが。
このくだりが全く釈然としなくて。「異説」「定説」なんてそんなに「0か1」や「白と黒」みたいにキッパリ分けられるものか?一部分は正しいけれど、1部分は正しくない(証明されていない、定説にはなっていない)といったグレーなものが多いのではないかなと。そこをいきなり「異説」「定説」の2つで片付けるのはどうなの・・・?と。日々一筋縄ではいかない自然科学事象ばかり扱っていている私には腑に落ちませんでした。
夫には屁理屈と言われましたけど、うーん。同じようにこのポイントが気になる人いないのかな。全体には何重もの仕掛けがあり、よく練られ考えさせられる作品だと思ったのですが、バッジの下りだけが納得できなくて…。
娘に聞いてもそこには特に疑問を感じないそうなのでいいのかな?(そもそも「定説」「異説」の意味がちゃんと分かってないと思われますが。)
でもドラえもん映画は、女の子むけ正義の味方の某キャラクター映画よりも、内容が深くて、脚本も良いものばかりなので好きです。 女の子むけキャラ映画の方は作りが単純過ぎて(子供には明快でいいのかな?)、もう付き添いで観に行くのも面倒と思っています。ゴメンナサイ。
私としては、子供と一緒に他の作品も見るとしたら「名探偵コナン」がいいなと思っています。